退職の記念として、沖縄の離島へ家族旅行をしてきました。

竹富島、西表島などなど、大自然を満喫するナチュラル系の楽しみ方をする一方で、
石垣島では古い遺跡巡りをして、海人の文化にすこしだけ触れることができたので、その記録を書き残しておきます。

石垣島では、神が存在あるいは来訪する場所は「御嶽」(スオン)と呼ばれています。
一応、本土の神社やお寺のようにお堂はあるのですが、神聖な場所、あるいは神聖視される対象というのは建物の中にはなく、
森・泉・川などの自然そのものが「御嶽」である、という考え方のようで、基本的には人が足を踏み入れることができない手付かずの森(完全にジャングル)が中心にある、というケースが多いようです。
竹富島では「御嶽」は(ウタキ)と読まれていましたが、(僕が見て回ることのできた範囲では)やはりそれは手付かずの森のことを指していました。

たとえば、石垣の美崎御嶽(ミシャギオン)という聖域では、

IMG_5659
鳥居をくぐって

IMG_5660
お堂を通ると

IMG_5661
聖なる存在である森へのゲートが。

多くの「御嶽」では森そのものへの立ち入りはできないようですが、
ここでは自由に出入りすることができました。(なのでここは、手付かず、ではないですね・・・)

調べてみるとどうも鳥居は明治維新以降の皇民化政策によって設置されたようですが、
このような構成は、富士山信仰で有名なあの山宮浅間神社を連想させるものがあります。
山宮では、鳥居をくぐり籠屋を通ると遥拝所というすこし小高くなった場所に設けられた舗装された正方形の広場にたどり着きますが、
そこからは信仰の対象である富士山が森の中央の裂け目に大きく頭を出しており、
そこにいたるまでの体験と、最後に現れる富士山の姿の切り取られ方のあまりの見事さに、身震いしてしまうような感覚を覚えます。

ポリネシアからやってきた海人が日本に上陸し、海上から東北、北海道に至るまで北上していったことを考えると、
日本文化の縄文的な側面の、よりオリジンに近いものがここにあるのだろうか、などとボンヤリ考えながら見て回っていました。

 

いくつか見て回った文化財のなかでもとりわけ鮮烈な印象を与えてくれたのは、「小波本御嶽」(くばんとおん)です。
これは八重山列島にはじめて稲作を伝えた、安南(現在のベトナム)からやってきたタルファイ・マルファイ兄妹の住居跡と伝えられ、
マルファイの墓である「米為御嶽」(いやなすおん)とともに、この地方の豊年祭や種子取祭りなどの農耕儀礼を行う祭の中心とされている場所です。

何が鮮烈な印象を僕に与えたのかというと、
「小波本御嶽」は遠くからみるとそこに存在していることがはっきりとわかるのに、
どうやって近づいていったらいいのかわからないという、その近くて遠い距離感でした。

まず、お墓の方である「米為御嶽」(いやなすおん)はすぐに発見できるような位置にあります。
IMG_5650
ちょっと話はそれますが、ここに着いたとき、ちょうどお墓の前でゴザを敷いて食事をされている年配の女性の方がおられました。聞いてみると、お供え物をしていた、とのこと。
その数日前に伊礼 智 さんの「オキナワの家」で、沖縄の家やお墓についてちょっとだけ勉強していたこともあって、なるほどと思いました。
沖縄のお墓は本土のものとくらべるとずっと大きくて、石造りの広い庭のようなものがかならず付属しており、その部分で年に何回か親戚一同があつまって宴会をするという習慣があるらしい。
おそらくこのお墓に通われている女性が、ごく日常の一環としてこのお墓の前で食事をされていた、その現場を幸運にも目撃することができたということになります。
お墓には注がれたばかりの水とコップがふたつ、置かれていました。

 

このあと 「小波本御嶽」を目指して地図を見ながらあたりをウロウロしてみたものの、遠くに森があって「そこに何かある」というのはどこからもよくわかるのですが、
どうやったらそこに近づいていけるのか、そのルートがぜんぜんわからずまわりをグルグル何度も回ってしまいました。
後でgoogle earthで調べてみたところ、地図上だとこうなっているものが
小波本御嶽2

実際はこうなっていました。(中央に森)
小波本御嶽

ちょうど街区の中央にあるものの回りをグルグル回っていたことになります。
小波本御嶽3
でもなにかあのあたりにあるということは遠くから見えててわかる。
それで、観光マップには詳細な記述がないしあたりにサインなどもないのであきらめようかとおもっていたところ、敷地と敷地の間の道というかスキマを発見し
IMG_5654

入ってみると、道とも言えない道があり、その先にありました。
IMG_5652
ふたつの新鮮な水で満たされたコップ。
さきほどの女性がお供えしていったものでしょう。

石垣市の文化財マップにも記載されているのに、入り口にサイン等もないし、きちんと整備されたアプローチがあるわけでもない。
しかし、聖域として確かに人の心の中に存在している。
この近くて遠い距離感の中に、自然への信仰がどういうものだったのか、ほんのわずかなひとかけらですが、教えられた気がしました。

その後、石垣市のハザードマップをみると、
この聖域のあたりは想定津波が襲ってくるギリギリのエリアにあることがわかりました。
津波を想定してあった住居地の選定なのか、当時の海水位が高かったのかはわかりませんが、
いずれにしても海との関係の中で選ばれた場所なのだな、と思いました。