140424

今日はある打ち合わせがあって、どういう仕事をしてきたのかを簡単に自己紹介する機会があった。

 

説明しながら頭が整理されていって気づく。
それは、平田事務所で学んだことはいっぱいあるけれど、そのひとつとして、「かたちをはたらきとセットでとらえる」ということを訓練されてきたんだな、ということ。

 

たとえば屋根と谷筋は水が流れるという「はたらき」をもったかたち、
樹木は受照面を多く受ける「はたらき」をもったかたち、
といった具合に、かたちはなぜそのかたちであるのか、どういう「はたらき」を持っているのか、そこはいつも厳しく問われていたように思う。
そしてそうやってできたかたちは、どこかいつも、不思議と自然物のありかたに近づいていくという建築の見方も学んだ。

 

一方で、東大で難波研究室に在籍していたときに読書会でレイナー・バンハムやコーリン・ロウの本を読ませてもらったことも思い出した。
第二世代の建築史家という位置づけの彼らは、モダニズムとモダニズム前の建築思想との間には技術的・機能的な非連続性はあったが、形態的には連続していたということを明らかにしていたと記憶している。つまり、モダニスト自身たちの主張のように機能が形態を生み出していない、という指摘なわけで、これによって形態は機能や技術とは無関係に自律的に生成可能だということが歴史的に証明されているということになっている、という話だ。

 

でもたとえば、先述の谷筋や樹木のように、雨や太陽が相手となった場合、しかもそのかたちやなりたちがその「はたらき」とセットになっている場合、形態はゆるやかに「はたらき」に従っていくかもしれない。
あるいは、記号的な要素も積極的に「はたらき」として解釈するという試みも、既に平田事務所では始まっていた。
完全にかたちは決めきらないだろうけれど、ある程度の方向性を示すものとして。

 

おそらく多くの建築家や建築史家がとっくに気づいているように、ポストモダンとは何か、ということは今一度問われなくてはならないのかもしれない。

 

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