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カフェフィーリョ通り
映画『トランセンデンス』を観た。

http://transcendence.jp/

 

トランセンデンス(transcendence)とは、日本語で「超越」という意味。
誤解を恐れずに乱暴に簡単に言うと、つまり「神」、人間を超えた普遍的な存在のことを言うらしい。
このあたりはたぶん哲学的な用語なんだと思う。どっかの本で読んだことある気がする。
たぶん日本人のいうところの神ではなく、キリスト教とかの一神教の神の概念に近いことのはず。(たぶん)

 

ストーリーのあらましについては映画をみるかさきほどのリンクの予告編を見るとだいたい理解できるので省くとして、
ぼくはこの映画を観ながらもはや古典的とも言えるテーマ、つまり人間性と科学技術の対決ということについて考えていた。

 

このテーマはずっと昔から映画で取り扱われてきた。
スターウォーズとかマトリックスとかAI、ブレードランナーとか、こういう話しになったときに挙げるべき映画はいっぱいある。
スターウォーズなんかでは科学技術の恐怖の表現としてのデス・スターがあったり、マトリックスではエージェントという人間を支配するシステム全体を代表する存在と戦い続けていた。
だいたいの場合において、科学技術が進化しすぎたり暴走したりして人間がコントロールできなくなり、人間が科学技術に支配される未来を描いている。そして、それに抵抗する人間の人間らしさが描かれていたと思う。
甲殻機動隊ででてくるところの「ゴースト」という概念だってこのあたりから出てきてる。

 

でもこういう数々の作品を見ながらいつも僕が思っていたことは、
科学技術ってほんとうに人間から離れて自律して動くものなのだろうか?それって人間自身の問題なんじゃないだろうか?ということだ。

 

たとえば東京アメッシュというサービスがある。
http://tokyo-ame.jwa.or.jp/
これについて、こういうことを言う人がいる。
「こういうサービスが出てくる前は、人は雨にあたることなんてそこまで気にしていなかった。実際にヨーロッパ人なんかは今でもそうだ。でもこういったサービスが出てきてしまったから、人はわざわざ通り雨を避けるためにこのサービスにアクセスするために時間や電力を費やすようになった。雨に降り込められて雨宿りする時間を惜しんで、おなじくらいの時間を使い、神経を尖らせるようになってしまった」

これに対して僕はまず、こういった新しい技術によってサービスを提供すること自体は善でも悪ではない、ということを思う。
次に、新しいものを使ってみたい、自分の生活をせっかく手に入った技術でもって変えてみたい、それが生活の改善になるのか改悪になってしまうのかわからないとしても、やってみたい、と思う気持ちというのはとても人間らしくて好きだし、それを楽しめているという点でなんら批判すべきことではないすばらしいことなのではないか、ということを思う。
もしこのサービスを使って神経をすり減らしてストレスを感じるような人がいたとしたら、その人が自分で気づいて自分で改善すればいいんじゃないだろうか。それはその人個人の問題であって人間全般の問題ではない。

 

科学技術というのはおそらく、人間の身体の機能を拡張して、認識のドアを大きく開いて、この世界の驚きと神秘と魅力をより大きく鮮明に見るためのものなのだろう。
結局、人間には見る主体の見たいものしか見えない。その意味では、むしろわれわれ自身の最も内面的な部分を拡大して見せてくれるのが科学技術なのかもしれない。
科学技術は人間の能力を拡大したり拡張したりするだけだから、もし人間が科学に支配されるというようなことをイメージする人がいても、それは科学そのもののせいではなくて、人間そのものが内臓している性質によってそういうことになってしまうのだろう、と個人的には思っている。

 

そういうことを日ごろボンヤリと思っていた僕にとって、この映画の最後の仕舞いのつけ方はとても納得のいくものだった。
(以下ネタバレ注意)
人類最高の科学者の脳がインストールされたシステムは、その圧倒的な知性とインターネットの相乗効果によってほんの数ヶ月で全世界を支配できるような力を持った存在となってしまう。
ナノマシンによる生体改造で作り上げる軍隊、アルゴリズムによる株式操作でもって稼ぐ無尽蔵な資金、メガソーラーによってまかなわれる完全に自律したエネルギー源の確保。
その脅威に気づいた一部の人間たちはこのシステムを破壊すべく行動し、最終的にはシステム破壊に成功する。
一見、人間性が科学技術の支配に対して勝利をおさめているように見える。

ただ、最後のシーンを注意深くみると、製作者の意図は違うところにあるように読める。
最後の瞬間、科学者の脳(のインストールされたシステム)は、ただ天才というだけでまったくの「いい人」、つまり汚染水の浄化技術によって飲める水を増やし水不足問題を解決し、破壊された森林をナノマシンで回復して生態系を復活させ、地球環境と人間のよりよい共存を実現することだけを(彼の妻の願いどおりに)かなえようとしていただけだった。つまり人間性と科学技術は彼の存在によって、よりよいレベルで共存できる未来が可能だったのだ。
ところがこれを脅威としてしかとらえなかった人間側は、最終的にこのシステムの破壊に成功するが、そのために世界中にばら撒かれたウイルスファイルによって全世界でインターネットが使えなくなってしまい、人類文明は後退した。人間の科学技術への恐怖心が、結局のところ人類の生活そのもののレベルを下げてしまったのだ。

 

一見、人間性が科学技術に対して勝利を収めるというストーリー展開は大衆映画としての性質上必要だったのかもしれない。しかし、製作者は人間性と科学技術が共存できる未来というのを実は信じていて、そういう主張を、映画として成功をおさめることを犠牲にしないような、ささやかだけど確かに表現できるレベルでこの映画に込めていたのではないか。
それを感じることができて、僕はこの映画を観て本当によかったなと心から思っている。