140904 (2)
鈴鹿哲夫展
ロンドンギャラリー白金

白金アートコンプレックスのビルの4Fにあるギャラリー。
前職でいちばん最初に担当させてもらったKodama galleryが1Fにあって、(→過去の投稿
その関係もあってなんとなく気になり、ひさしぶりにのぞいてみた。

 

とてもカジュアルな感じで展示作品が置かれていて、
まったく押し付けがましくなく、作品の解説などもほとんどない。
だからこそゆっくりと「自分の目」で作品を見ることができた。
こういうギャラリー好きです。

 

ジョージ・ネルソン展の直後に来たためか、あるいは絵のタイトルに「Cell」という単語が使われていたためか、
モデュールというか最小単位というかピクセルというか、そういうものが表現手法として使われていることになんとなく目が行く。
(ちなみに展示されていた絵は、屏風とか雲とか山とかいった日本の伝統的な絵によくもちいられているモチーフを、画像処理してピクセル化した風景画像とか、ドットとかグリッド模様などの現代的な表現方法で組み合わせでつくられているもので、たいへん美しく、みていてぜんぜん飽きない。かなり好きなタイプの作品)

 

解像度というのは、原理的にはどこまででもあげていくことができる。つまり、ある絵を構成するピクセルはどこまでも細かくしていくことができて、どこでとめるのかは恣意的な判断になる。単位というのは、確固としてあるようでいて実はあいまいなまとまりなのだろう。
わざとちょっと荒っぽいピクセルにして、デジタルで今っぽい表現にするっていうやりかたは、「現代的であること」を表現するための記号として完璧に機能している。その「現代的」な部分と「伝統的」な部分が絵の中で渾然一体となっている。
この「わざと粗いピクセル」はいつ頃から現れた手法なんだろうか、などということを考えるともなく考えてしまった。

 

絵画作品の画面に対しては粗いセルだけど、いったん建築にひきよせて考えてみる。

 

コンピューターが安く高性能になったおかげで、複雑なものを複雑なまま扱えるようになり、ものすごい小さいピースを超大数集合させて建築を考えることも不可能ではなくなった。
絵画はピクセルを粗くしたかもしれないが(写実的な絵画のピクセルが超細かいことはホキ美術館の展示でいやというほど教えられたことがある)、建築は扱うピクセルをどんどん細かくしていっているという感覚がある。

 

ただ、どうだろう、今はまだそれは頭の中だけの話かもしれない。つまり、それは「設計可能」だけど必ずしも「建設可能」ではないことが、少なくとも現段階の建築をとりまく状況では言えそうだ。
さまざまな実験的な取り組みがなされ、じきに(いつだろう?)だれでも簡単にザハみたいに全部局率の違う局面タイルをつかったりすることが安価にできるようになるかもしれない。

 

もし仮にそういう世界がやってくるとして、そうなると次に気になってくるのは、
粘土みたいにドロドロなものをぐちゃぐちゃ固めて作るようなタイプの建築と、プラモデルみたいにパーツをくみあわせてつくるタイプの建築の境目はなくなっちゃうんだろうか。
そのときに創り手はどういう気持ちでマテリアルを扱うんだろうか・・・・

 

その日がやってくるまで、わからなさそうだ。